今日の平和が明日の平和とは限らない。
今日も平和な1日だったなー!明日も平和な1日だといいな。
今日が平和だったから明日も平和なんだとあなたは言い切れますか?
どうも!龍です!
平和な日が続けばいい。
これって誰もが思ってることだ思います。
でも願うだけで平和って訪れるんでしょうか?
龍はそうは思いません。
今日が平和だったからといって明日も平和なんでしょうか?
龍はそうは思いません。
なぜなら明日を予言することなど出来ないからです。
10月17日、BSの番組「報道1930」に立憲民主党の枝野代表が出演しました。
その日のテーマは「立憲民主の壁、批判ばかりしているじゃないかと言うイメージ、これをどう乗り越えるのか。」
記者
「枝野さん知っていますか?」
若い女性①
「名前だけ聞いたことはある。活動内容とかは知らない。」
別の若い女性②
「自民党とかが決めたことに『いやそれはさ〜』みたいな文句が多そう。」
「決めたことに対して反対意見もあるだろうけど〜」
記者
「それは反対しているだけに見えるということですか?」
若い女性①
「普通に考えても文句つけてる人たちを応援しようとはならない。そこまでケチばかりつけても決まるものは決まらないだろうし。」
龍は思う。
国民、特に若者の政治や国に対する認識レベルが変わらない限り国を変えることは出来ず、平和どころか平和を脅かす明日が訪れるのではないのかと。
彼女らの言ってることをまとめると
①国の政治を決めるのは安倍政権であり、自民党である。
②その安倍政権と自民党の政策に対して政策がいかなるものであっても批判や質問をしてはならず、批判は文句とケチと同じである。
③文句やケチを言ってる政党、政治家は応援しない。
ということになります。
一番大事なのは彼女らが知識ありきの発言をしているのかというとそうではない。
もし彼女らが言うように自民党が決めたことに対して質問や批判をする政党がいらないのであれば日本の政党は自民党だけでいいし、議会制民主主義などいらない。
彼女らは議会制民主主義に対してどれほどの知識があり、安倍政権の政策に対してどれほどの知識があるのだろうか。
そもそも数年に一度国会議員を選ぶ権利を「国民主権」という言葉で国民に「主権」があるように擬制し選挙以外政治に介入できる機会を制限している議会制民主主義自体民主主義なのかどうかが問われています。
国会議員を選ぶ制度である選挙は、民主的で平等であるということになっています。
つまりみんなが参加できて(民主的)、仲間はずれや格差はなく本当にみんなが参加できる(平等)ということです。
ここで「ということになっている」というのは、実際はそうではありません。
なぜならまず日本の選挙には高い供託金が必要で、それがないと立候補することすらできないからです。
国会議員の場合、300万から600万程度用意しなくてはならない。
これでは、お金持ちしか議員になることはできません。
しかも十分な得票率を取れなければこの供託金は没収される。
これは自由に出馬する権利を奪われており民主的でもなければ、平等でもないということだ。
議会制民主主義というのは、このように出馬できた一部の人間が他の大勢の上に立ちみんなと議論をせずに勝手に法律を作れる制度でもあります。
国会議員たちが、何かの法律を作るときに国会の中だけで議論をし国民みなと対話をせず、ときには強行採決をしたのを見たことがあるはずです。
なぜなら安倍政権は何度も強行採決をしてきたからです。
本来ならばそういう経験をしたからこそ国民が政治の場から、意思決定の場から排除されていると感じるのではないだろうか。
真の民主主義において国民は力を持ち、みなと平等で、きちんと意見を尊重されるべき存在が国民である。
しかし、国民が力を持つと困る人間がいます。
それは人々の上に立つ国会議員であり、お金持ちであり、ありとあらゆる「権力者」です。
権力者とは、自分より目下の人間に命令することができる人間のことでありまさに国家においての強者である。
これが民主主義の本質は人間は皆平等であり目下という概念など存在しません。
国民は本来持っている力を思い出し、それを世界をよくするために使うことができる。
しかしいまの日本国民の政治に対する無知無関心はそれ以前の問題であり自身の未来を自ら蝕んでいる。